やきものの里・益子で濱田庄司にであう旅
2017年4月19日|てらしまちはる
ある時ふと、益子焼がとても気になりだしました。そうしたら、益子に行ってみたくなって……。
いつものサラダがいつもとちがう
ある日の夕食。自宅にある益子焼の皿にサラダをもりつけたら、なんだかめっぽうおいしそうに見えました。いつもと同じ材料なのに、なぜだろう?
よく眺めてみると、そういえば入れ物がいつもとちがうのでした。普段はガラスのボウルに入れているのを、今日はそっちがふさがっていたから、益子焼の皿に盛りつけた。ただそれだけ、でもおいしそう。
うちの益子焼は、とくに強い主張のない素朴な茶色の皿ですが、「強い主張がない」というところに、なんだかヒントが隠れていそうな気配がします。
なんでもない、けれど気になる
気になる、それじゃあ旅にでよう
ひとたび気になりだすと、益子ってどこ? 焼き物の特徴は? と、知りたくて仕方ありません。調べてみると、栃木県。東京からだと、そんなに遠くもありません。
焼き物自体は古くから作られていたようですが、益子焼と名前がついたのは江戸時代から。大正のはじめには、ガラスや金属の生活用品におされて製造が減りますが、関東大震災後の需要で復活。その後、陶芸家・濱田庄司がこの地に工房を構え、ふたたび息を吹き返します。
時代をかいくぐって生き延びてきた器の里。そんなに遠くないし、いっそ行ってしまおうか。思い立ったら、翌日には電車にのっていました。
城内坂を焼き物さんぽ
東京からJRでむかい、下館駅で単線のローカル線・真岡鐵道で益子駅へ。3時間弱かけて到着した駅は、ごく質素な造りでした。駅周辺にも店らしき店がない、のどかさです。
駅の案内所できくと、町のそこかしこに焼き物店が見られるとのこと。店の密集地帯からすこし足をのばせば、濱田庄司の工房跡でもある益子参考館も見られます。ちょうどお昼前。さんぽがてら焼き物屋さんをのぞいて、お昼にして、そのあと参考館にいってみよう。よし、決めた。
城内坂地区
てくてく歩いていくと、駅から10分ほどの距離で、ぼちぼち「焼き物」の看板をかかげる店が目につきはじめました。まず目指すのは、城内坂(じょうないざか)という地区です。
益子焼がずらりと並ぶ店先
それから5分ほどで、目的のエリアにたどりつきました。数百メートルもつづく通りの両脇に、約30件がずらりと軒を連ねます。あっちの店、こっちの店と見てまわるだけで、シブカワいい器たちが出迎えてくれて、たのしい。
陶芸体験ができるところも、かなりあるようです。今度はもうちょっと早く出発して、じっくり自分で作るのもいいなあ。
はにわや土偶を扱う店も
興味深いのは、どの店の人もこちらが器をほめると「そんなそんな……」と、一様に照れたような表情を見せること。もの静かで恥ずかしがりな土地柄なのか、なんともかわいらしいのです。
城内坂地区のちょうど中央あたりで、おいしそうなパスタランチを出すレストランを見つけたので、入ることにしました。
益子焼の皿に盛られたパスタ
コーヒーカップももちろん益子焼
ここで使われる器も、やっぱり益子焼です。自宅で感じたのとおなじく、主役の彩りをけっして邪魔せず、けれどシンプルすぎない温かな質感をもった皿。さっき会った土地の人々に、どこか似ている気もします。
のんびり。焼き物の町のねこ
益子参考館に足を踏み入れる
お昼休憩を終えてふたたび歩きだすと、陶芸店はだんだん少なくなってきました。かわりに、遠くに登り窯らしきものが見えることも。駅から30分ほどで、最後の目的地の益子参考館につきました。
道中見た、登り釜らしきもの
益子参考館は、濱田庄司の自宅兼工房跡を活用し、昭和53年より彼の制作物や関連資料を展示する資料館です。そもそも濱田とは明治から大正、昭和をいきた陶芸家で、日用品こそに美をみいだす「民藝運動」の立役者の一人として有名な人物です。
濱田庄司 画像提供/公益財団法人濱田庄司記念益子参考館
この地で生まれ育ったわけではなく、東京で生まれて京都で学び、日本や世界の各地で研鑽を積んで、最後に益子へ根をおろしました。濱田自身も著書のなかで「私の陶器の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と述べています。
濱田庄司の益子焼「糠釉紋打鉄絵花瓶」 画像提供/公益財団法人濱田庄司記念益子参考館
努力家であり、生粋の芸術家。その才能が益子焼の名を全国にとどろかせるのに一役買ったと考えれば、益子にとって濱田とは、ターニングポイントであるともいえます。
学んだ民藝、生み出した民藝
資料館の入り口をくぐると、濱田自身がコレクションし、制作の参考にした諸国の民藝品が、まず出迎えます。古今東西のあらゆる民芸品の長所を吸収し、あらたな潮流をこの土地で生み出した息づかいが、品々を見るほどに伝わってくるようです。
益子参考館に到着した
参考館入り口の文字は濱田直筆
キリスト教美術さえも濱田の栄養だった
日本の土偶にも惹きつけられた
愛嬌あるアメリカンインディアンの鉢
奥へすすむと、工房です。濱田が自身の作品と対峙した場所。うす暗く、いまも土の湿り気がほのかに感じられます。
外から見た工房
内観。作業場が複数ある
積み上げられた道具
ここに座って作業し、形を生み出す
粘土を保管しておく「土室」
濱田はまた、益子の土を「難しい」と捉えていました。陶芸をするには最上でない、扱いにくい土を、20年かけて手になじませ、自在に操ったのです。土地の生まれでないからこそ、客観的に持ち味を知り得たのかもしれません。革新的な作風を次々に編み出し、それらはいまの益子焼にも脈々と受け継がれています。
いまにも動きそうな登り窯
工房のさらに奥に、巨大ないきもののような登り窯が横たわっていました。傾斜を利用した窯で、奥行きは数十メートルあります。ひとたび火が入れば、3日ほどは夜通し焼きつづけたといいます。
工房から登り釜をのぞむ
床の間や棚に飾られるのではなく、実生活によりそう器。それが、濱田の作らんとしたものです。日々の使用に耐え、ものとしての素朴で実直な美しさをも備えた作品が、この窯から数えきれないほど旅立っていったことでしょう。
もっとも低い位置に焚き口がある
内部は大人が背をかがめて入れるほどの高さ
生き物が口を開けたよう
少し離れたところから
生み出される作品は、当時の先端を走ったからこそ、よく模倣されたといいます。しかし濱田自身は、先々の陶芸の発展のためにそれをゆるしていたのだとか。作り手自身が、はかりしれない大きな器だったのです。
筆者の自宅の、あるいはあなたの持っている益子焼にも、たとえ直接でなくても、彼の制作のDNAが継承されているかもしれないのです。
それに、もしかしたら益子焼だけに限ったことではないのかも。いま、なにげなく目にしているシブカワアイテムにも、和の記憶がひっそりと息づいているのではないでしょうか。そう考えると、なんだか途方もない話です。手元のサラダ皿に筆者が感じた美しさを思い出し、いいしれぬ感覚にひたりました。
一枚の皿につきうごかされて、益子の土地を肌で感じ、濱田庄司の面影にふれた旅。小さな感動を、静かな木漏れ日と土の匂いが、やさしく包みこんでいます。
参考書籍:『近代日本の陶匠 濱田庄司』(水尾比呂志、講談社)
屋外にも展示品は多い
濱田が生前愛用した椅子
創作のための濱田のスケッチ
館内にはカフェスペースも
積み上げられた薪
見つめると、濱田の愛着が肌をなでるようだ
この記事を書いた人
てらしまちはる Chiharu Terashima |ライター
児童書編集を経て、フリーライター。専門分野である絵本、こどもアプリの話題を中心に、ウェブ媒体や雑誌で執筆中。2016年より始めたイタリア・ボローニャブックフェア独自取材を今年『ボローニャてくてく通信』として発表する。
ボローニャてくてく通信
・Facebook:https://www.facebook.com/bolognatektek/
(2018/3/1公開)
・公式HP:http://terashimachiharu.com/
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